最終更新日:2022/09/03 (公開日:2020/02/01)
[生き抜く知恵]vol.9 宗教・神社お寺
滋賀県長浜市のとある場所にある、生き抜く知恵の実験室WEEL。
ここでは日夜「生き抜く力」について考え、時にそれらを身につけるための実験やチャレンジや発信がおこなわれています。
「防災」って、きっとこれからの時代においては自然災害に対するだけのものじゃなく、人生そのものを生きていくための「生き抜く力」のことになる。そんな仮説のもと、生き抜く知恵を学んでいく暮らしの中で、特色あるゲストを招いての特別研修もおこなっています。
今回は、「宗教・神社お寺」。
わたしたちが学んだ生き抜く知恵を少し、ご紹介させてください。
生き抜く知恵のかけら
・「正しさ」を求めるよりも、その「理由」や「意味」を知ること
・完成されたものだけが絶対ではないという考え方を理解すること
知恵の持ち主は吉田亮さん
1990年岐阜県多治見市育ち。東京大学理科二類入学後、文学部卒業。武道館目指してバンド活動の後、志に目覚め日本の文化や歴史に’楽しく’触れるきっかけを作ろうと、塾、講演、ツアーなど2013年より活動。2016年法人化。日本最大の神社お寺の投稿サイト「ホトカミ」を運営する。
「ありがたいものはありがたい」という精神で目の前と向き合うこと
「宗教」と聞くと、日本ではすこし敬遠されがちなテーマだと感じる人もいるかもしれない。「神社・お寺」と聞くと、神聖で近づきづらい場所、厳かで特別な場所であるというイメージを抱く人が多いと思う。しかし、日本にはコンビニの3倍以上、約15万箇所にのぼって神社とお寺は存在している。そんなにたくさんの数の神社やお寺があれば、「近づきづらい」なんて感じる方が不自然なのではないかとも思えてくる。
「昔の人には、神社とお寺の明確な区別はなく、『ありがたいものはありがたい』というシンプルな感じ方が根底にありました。目に見える・見えないということや、説明ができる・できないということに関係なく、おおいなるものに対する畏敬の念を抱く精神こそが、日本人の根底にある宗教観・信心なんだと思うんです」
「ホトカミ」という寺社のお参りの記録投稿サイトを運営する株式会社DO THE SAMURAI代表取締役の吉田さんは、もともと滋賀県の生まれ。彦根城のふもとで生まれた彼は、中学生の頃から24歳まで、プロのミュージシャンを目指してバンド活動をしていたという経歴を持っている。
「大学4年になって、休学をしてバンド活動を本気でやろうと思ったときに、急に曲が作れなくなってしまったことがありました。何を歌いたいのかわからなくなって、いろんなことを考えました。昔から好きだった日本文化や歴史についても触れて、そのなかで『志』という言葉に心を動かされたんです」
「志」という言葉は、「士(サムライ)の心」であると吉田さんは語る。「これまで自分は、自分の夢のためだけに歌ってきた。けれど、志は『世のため人のため』。自分の夢だけではなく、世のため人のためにできることは何だろう」ーーそんな気づきをきっかけに、「自分のできること」である音楽と歴史の話を組み合わせ、ライブのMCで歴史を伝えるスタイルを確立させていったのだそうだ。
そうした活動を続けるなかで、「秋葉原の歴史を語ってほしい」といったリクエストも届くようになっていった。そうした依頼が増えると同時に、「自分に求められているのは歌ではないかもしれない」ということにも気がつくようになっていったという。
葛藤の末に、吉田さんは「志」の精神にもとづき「求められていることに応えよう」と決め、歴史にまつわるMCをおこなっていた流れから、神社をめぐるツアーなどもを開催するようになっていった。
「観光客が訪れるような大きくて有名な寺社以外にも、日本には本当にたくさんの地域の寺社があります。そのどこにも、固有の良さがあり、地域の方々からの親しみがあり、信心もある。けれども実情として、そうした寺社と若者の繋がりは薄れていき、将来、維持していくことが難しいだろうと言われています。だから、『食べログ』のように気軽に投稿することのできる『神社お寺版の投稿サイト』をつくろうと思いました。それが『ホトカミ』です」
神社という場所は、「立派な建造物があるから神社になった」という訳ではない。吉田さんによると、1000年以上前から、人々がその場所で起こった「奇跡」や、功績を残した人物にいわれのある場所をまつり、祈ったことが起源となっている神社もあるのだという。
「昔から、山や、川や、木といった自然に対しても人々は祈りを捧げてきました。そうした精神は、日本人の万物に対する信心、『ありがたいものはありがたい』と受け入れること、八百万の神の思想にも通じているものだと思います」
「立派なものだからありがたい」のではなく、「ありがたい」という心をもって目の前のものと向き合っていく。その精神は、豊かに生きるために大切な思想のひとつとして、参考になるのではないだろうか。
「正しさ」を求めるよりも、その「理由」や「意味」を知ること
神社やお寺へお参りする際に、「正しいお参り方法」を知りたくなるという人は多いだろう。文化としてのマナーを知りたいという思いもある一方、「間違ったことをしたくない」「恥をかきたくない」がゆえに「正しさ」を知りたくなるという心理は、日常においてもあらわれることがあるものだ。
「現代では、神社では二礼二拍手一礼をしてお参りをし、お寺では手を合わせて合掌をしてお参りするという作法が一般的です。けれど、そういった作法もはっきりと統一されていない時代もありました。あまり知られていないことかもしれませんが、現在一般的になっているあのお参りの作法は、長い変遷の後で今の形になっています」
「また、各土地や寺社によって異なる参拝方法の場合もあります。例えば、出雲大社のお参りの作法は、二礼四拍手一礼です。拍手が二回ではなく四回なんですね。そういった違いがあるのも日本の信仰ならではかもしれません」
お参りの作法に限らず、何事も、わたしたちはつい「これが正しいのかどうか」ということを気にしてしまう。けれど、本来意識を向けるべきなのは「正しさ」ではなく、それが「正しさ」としてそこにある理由や意味の部分だろう。
いまわたしたちが「正しさ」として捉えているものも、起源をたどれば存外やわらかく、たよりなく、「形なきもの」として生まれ、少しずつ今の形として形作られてきたものでしかないのかもしれない。
「正しさ」をただ踏襲するよりも、その「正しさ」が生まれた意味合いを想像し、調べてみるということが、わたしたちが持つべき生き抜く知恵だとはいえないだろうか。
完成されたものだけが絶対ではないという考え方を理解すること
日本文化の根底には、「emptiness(中身が空、空白)」「purificution(浄化する)」というふたつの考え方が流れていると吉田さんは話す。
「emptiness(中身が空、空白)」という考え方があることで、そこには単純な二項対立ではない曖昧な領域が生まれる。たとえば、日本神話にでてくる正体不明の謎の神、無為の神といった存在がこれにあたるといえるだろう。そして、「purificution(浄化する)」は、「穢れることがある」という前提のもとに成り立っている考え方である。
「人は、気枯れ、穢れというような、『浄化する必要がある状態にもなりうる』ということを、日本では前提として考えているんです。疲れたり、元気が出なかったり。そういうときには神社やお寺へ行ってお参りをしたりして、心を清めてリフレッシュしましょうと」
人間は、完全ではない。生きていれば、迷ったり、悩んだり、元気が出なかったり、そういうことがあって当然で、だからこそ、その可能性を受け入れて、リフレッシュする術を持っておくことこそが重要だということを、日本の文化は伝えてくれているのかもしれない。
「穢れてしまったら浄化しよう」「崩れてしまっても、また元に戻せばいい」という思想は、古来から脈々と受け継がれてきた日本人の生き抜く知恵だといえるだろう。
完成されたものや、完全であることを求めたり、目指したり、正解を知りたがったり。そうしたことに意識を向けてしまいがちになることも多いけれど、そうではなく、「変化」を前提にものごとを捉え、「正解」以外にも意識を向ければ、もう少し力を抜いて、自分の感覚に素直に「ありがたいものをありがたいと捉える」ことに近づいていくことができるのかもしれない。
他にも生き抜く知恵の実験室WEELでは動画配信など様々な取り組みを滋賀県長浜市さんと行なっております!ぜひ下の画像をクリックしてご覧ください!