最終更新日:2022/09/03 (公開日:2019/01/24)
3.11のそれぞれの奮闘と教訓。岩手県大船渡市のケースより
東日本大震災によって大きな被害を受けた岩手県大船渡市。
今回は、大船渡市の復興政策課にインタビューを行いました。
その回答と送付していただいた資料からわかる以下のことを紹介していきます。
内容は全て許可の元岩手県大船渡市災害記録誌より抜粋しています
- 東日本大震災の時に大船渡市全体にどんな動きがあったか
- 避難所の運営などに関しての教訓
- 復興に関する進捗状況
01. 岩手県大船渡市について
大船渡市の特徴
岩手県の南東部に位置する大船渡市は、北は釜石市、西は住田町および陸前高田市に接し、東および南は太平洋に面しています。
三陸海岸の1/7をしめ、昭和35年のチリ地震津波では国内最大の被災地となりましたが、市をあげて復興に取り組み、水産業、窯業、木材加工業などを中心に発展しました。
平成23年3月11日の東日本大震災により、今までに経験したことのない甚大な被害に遭いたが、この災害を乗り越え、市民一人ひとりが幸せを感じ、誇りを持てるまちとして再生するため、市民や企業、行政などの協働により、一丸となって復興に向けて取り組んでいます。
地震と被害の全容
(1) 発 生 時 間 平成23年3月11日 14時46分
(2) 震 源 地 三陸沖
(3) 震源の深さ 約24km
(4) 震源の規模 マグニチュード9.0
(5) 当市の震度 震度6弱・津波到達 大船渡市第1波観測 14時54分 0.2m(当日気象庁発表)
・最大波観測 15時15分(地震29分後) 3.3m(当日気象庁発表)
・最大波観測 15時18分(地震32分後) 8.0m以上(3/23気象庁発表)
・最大波観測 時間不明 11.8m(4/5気象庁現地調査)被害状況
(1) 人的被害及び建物被害
① 人的被害 死亡者340人 行方不明者79人
② 建物被害 5,592世帯
(全壊2,791、大規模半壊430、半壊717、一部損壊1,654)
(2) 物的被害 判明分 約1,077億円
02. 東日本大震災が起こってから
3月11日、地震が発生してから、様々な機関が救助・防災活動に取り組みました。
大船渡市では市役所に設置した市災害対策本部、消防署・消防団、自衛隊など様々な役割を持ったチームが協力しながら初動対応が進んでいきました。
災害対策本部の動き
発災当時、大船渡市の本庁舎は高台に位置していたため、津波による影響を受けませんでした。
そのため、地震発生と同時にすぐに災害対策本部が立ち上げられました。
当時通信インフラが途絶したため、災害対策本部ではJアラートや移動系防災行政無線、消防救急無線、消防団無線、県防災行政情報通信ネットワーク、庁内各部などから情報を収集し、ホワイトボードに書き出して情報共有を行なっていました。
その後、12日未明に、県立大船渡病院の医師が市内の避難場所や避難者の情報を求めて市災害対策本部を訪れました。
その時に医師に市で集約した情報を提供することで市内の救援・医療活動に情報を役立てることができました。
一方で、インターネットが利用できないために復旧活動に対しての参考となる情報収集を行うことができませんでした。
そのため、行政の体制、応急・復旧活動の状況などの細かい時系列での対応に関してはチリ地震津波や新潟県中越地震などの災害誌を参考としながら取り組みを行いました。
地区本部の動き
3月11日に地震が起こったあとすぐに、各地で避難所の運営が開始されました。
避難所の運営は、市災害対策本部に属する地区本部の職員や自主防災組織などを中心に運営されました。
大船渡市には避難所の運営主体となる8つの地区本部が存在しました。
発災当日に市役所職員が担当の地区本部に到着できなかったところでは、地域の住民らによって自主的に避難所の運営が開始されました。
市役所員を含む、各地区の運営メンバーは避難所の運営および地区住民への情報提供を行い、市の対策本部と住民の情報共有の重要なパイプ役を担いました。
消防署・消防団の動き
住民の安全な避難のための活動
発災直後、通常避難指示などの第一報は消防署から行うこととなっていますが、放送が困難だったため市役所が代わりに大津波警報の発表に伴う避難指示の発令を行いました。
避難情報は防災無線により広報されるのですが、三陸支所の親卓が津波で浸水したため避難情報を伝えることができず、代わりとして、車に乗った消防団による直接的な声かけの周知活動が行われました。
また、遠隔操作できる7つの水門のうち3〜4基は故障していたことから消防団員が直接現場に閉鎖に向かいました。
午後3時20分(地震34分後)に全ての水門封鎖が完了しました。
しかし、避難誘導中に2名、水門・ひ門の閉鎖活動中に1名の消防団員が津波に襲われて殉職しました。
外部への救助要請
地震発生後、消防署では衛星携帯電話を2階の防災部に設置しました。
その後津波の情報が入ってくるに連れて、被害状況から消防本部では対応仕切れないと判断し、午前3時45分(地震59分後)に岩手県の総合防災室に対して「緊急消防援助隊」の出動を要請しました。
併せて盛岡消防本部にも同じ内容で県内の応援要請も行いました。
その後、11日夜には奥州金ヶ崎行政組合消防本部、12日には山形県隊が到着した。
14日には大阪指揮支援隊、16日には高知県隊などが到着して活動を行なったが、防寒着や雪用タイヤの装備がなかったため貸与するなどして対応しました。
自衛隊の動き
3月11日当日の夜に陸上自衛隊第9特科連隊第2大隊が到着し、その後にも続いて複数の隊が到着しました。
その後、自衛隊と消防本部などによって行方不明者の捜索が行われました。
自衛隊は捜索活動のみならず、炊事支援、給水活動、物資の輸送など多くの業務に携わり、6月頃には自衛隊音楽隊による激励演奏も行われました。
国際救助隊の動き
3月12日以降になると県や外務省等からの連絡により、国際救助隊として中国隊、アメリカ隊、イギリス隊の3隊が入ってくることとなりました。
これらの隊への対応は大船渡市のみでは難しいと考え、指揮支援隊を県に要請し、大阪市および堺市から指揮支援隊は派遣されました。
発災直後数日間、国際救助隊は主に捜索活動に従事し、19日に最後の中国隊が撤退しました。
03. 様々な機関の連携に関して
上記で述べた災害対策本部、地区本部、消防署・消防団、国際救助隊のみならず災害対応には様々な機関が関わり合っており、刻々と状況が変化しています。
そのため、情報の共有が非常に重要なため、様々な会議が連日執り行われました。
調整会議
3月12日夜から市役所にて、自衛隊、警察、消防・消防団、市建設課、市防災管理室などによる調整会議が毎日開催されました。
道路の啓開(緊急車両などの通行のために救援ルートを作ること)や捜索活動の振り返り、翌日の計画が話し合われました。
行方不明者の捜索や遺体の収容、道路のがれき処理などについても関係者での連携が図られて円滑な作業が進められるようにしていました。
言語的な壁のある国際救助隊とは、調整会議の後に通訳を交えて翌日の計画の打ち合わせが行われました。
市民・災害ボランティアと役所の連携
避難所の運営に関しては主に自主防災組織などと連携して運営を実行したが地域によって連携具合には格差がありました。
ボランティア団体については大船渡市社会福祉協議会においてボランティアセンターが設置されることで対応することができました。
04. 当時の対応からの学びや反省点
東日本大震災が起こってから、様々な機関や人々がこの災害に対応しました。
災害後にこれらの情報を整理してみると、今後も参考にすべき点や改善必要がある点などが浮き彫りになりました。
よかった点
運営側の行動
- 震災当日から氏名と行政区を記載した避難所名簿のノートを作成することで、安否確認などのその後の対応に大変有効であった
- 公民館などが避難者でいっぱいになったときは近隣の集会所などを緊急の避難所に使用した
- 個人宅世帯も避難者とみなして物資の支援が行われた
- 朝礼を実施することで情報共有を行なった
- 赤崎地区では地区公民館長と地区本部長により「避難者皆で力を合わせて、この難局を乗り越えよう」などの声かけが行われた
- 消防団の発電機により電気を確保して、不安を減らすために外からライトで照らすなどをした
避難者たちの行動
- 避難者の中で自主的な係が割り振られ、食事係・清掃係・衛生係・物資係などの役割をになった
- 看護師の方が自主的にインフルエンザにかかった患者の看病を行なった
- 被災していない店舗からお米を確保して女性が中心となっておにぎりを作った
- 避難者の中で班を構成して代表者による情報伝達を行なった
- 避難者が自分たちの家から寝具を持ってくることもあった
改善すべき点
本部の立ち上げに関する問題
- 本庁業務が再開されるにつれ、地区本部員が不足する地区が発生した
- 発災をしてから地区本部員が到着するまでに時間がかかってしまうことがあった
- 盛地区は津波浸水地区の想定がなかったことで地区本部がすぐに設置されなかった
避難所の運営で抱えた問題
- 乳幼児が避難者の中にいてミルクを求められたがミルクが備蓄として準備されていなかった
- 外国人の避難者に対して言葉や生活習慣の違いで対応に苦慮することがあった
- インフルエンザにかかった避難者に対して、病院から帰ってきた後に一時的に倉庫で生活してもらうしかなかった
- 無線が繋がらずに情報伝達に大きな支障がきたされることもあった
- 地区本部員の数が少ないと、特に宿泊当直のシフトを組むことが困難になった
避難者たちの行動
- 長期化する避難生活に対して、ストレスにより地区本部員に対して苦情がぶつけられることがあった
05. 大船渡市復興計画
復興計画の概要
目指すべき姿:命を守り、夢を育むまちづくりと防災に協働するまち大船渡
- 市民生活の復興
- 産業・経済の復興
- 都市基盤の復興
- 防災まちづくり
これら4つの目標に置いて全部で256の事業が全て着手されており、そのうち約半分がすでに実施が終了されています。
事業費に換算した進捗状況に寄れば目標に対して約8割の復興活動が完了しました。
06. 大船渡市からのメッセージ
災未曾有の被害をもたらした東日本大震災から、8年が経過しようとしております。
お亡くなりになりました方々に改めて深く哀悼の意を表しますとともに、被災された皆さまに心からお見舞いを申し上げます。
国内外の多くの方々から暖かいご支援と力強いご協力をいただいておりますことに、衷心より深く感謝申し上げます。
これまで当市においては、約260の復興計画事業の推進に全力で取り組んでまいりましたが、おかげをもちまして、住まいの再建をはじめ、被災した小中学校の整備、中心市街地の再生など、様々な部分で復興事業が進捗し、復興後の未来が見通せるまでになりました。
しかしながら、防潮堤整備、道路整備など完了までになお時間を要する事業や被災跡地後活用など解決しなければならない課題が残されており、これらの解決に引き続き全力で取り組んでまいります。
今後におきましても、復興の着実な推進はもとより、復興後の市内経済の発展や人口減少社会に対応する様々な施策を展開し、将来にわたって持続可能なまちづくりを進めてまいりますので、どうか引き続き、本市の復興を見守っていただきますようよろしくお願いいたします。
参考資料:大船渡市 東日本大震災記録誌