最終更新日:2022/09/03 (公開日:2019/02/05)
語られることのない自衛隊の活躍
東日本大震災によって大きな被害を受けた岩手県大船渡市。
発災時、この市では様々な機関の人々が人命救助や安全、復興のために奔走しました。
その中で、真っ先に駆けつけて長期的な支援を行なった自衛隊。
あの激動の中彼らがどう活動して、何を見たのか。その一部始終を紹介します。
以下は(当時役職)陸上自衛隊第39普通科連隊長一等陸佐 佐々木さんのインタビュー内容です。
”発災後1日立たずと到着した自衛隊”
──3月11日の大船渡市へ派遣された際の様子から教えてください。
大規模な災害が発生した際の計画に基づいて、地震発生後、準備を整えてすぐに大船渡市へ前進しなさいという命令を受け、準備を整えた部隊から前進しました。
部隊が大船渡市に到着したのは、3月12日午前4時くらいだったと思います。始めに先遣隊を出していて、予定していた展開地(猪川町の総合公園予定地)に入れることを大船渡に向かう途中で確認しました。私自身は12日未明に到着しました。前進の途中に12日午前7時から対策会議を市役所で行うことを聞いていましたので、まずは市役所に向かいました。
”それぞれ役割を持った4つの機関”
──捜索活動は各機関が共同で行うことを提案したと聞いていますが。
そうです。対策会議の場で提案しました。阪神淡路大震災の救助活動に参加した隊員から自衛隊だけでは災害派遣の活動には限界があると聞いていました。
市、消防、警察、自衛隊にはそれぞれ役割があります。自衛隊は一気に動くマンパワーがありますし、警察はご遺体の扱いといった法的なパワーがあります。消防団員は、地域の情報をたくさん知っています。市の職員は救助活動で家を壊さないと救えない時に、所有者や地域の代表の方と交渉をしてくれます。
こういったことを阪神淡路大震災の現場にいた隊員から聞いていましたので、災害が起きた際には、各機関をコラボレーションさせることが必要だと、弘前から大船渡市へ向かう車の中で考えながら来ました。しかし、現地に入ったら警察がいない、市の職員がいないということも想定できたので、そうした際は自衛隊が中心に活動する必要があるとも考えていまし た。
──実際到着するとどのような状況でした か。
午前7時の会議に行ったところ、市職員は自らも被災されながら献身的に対応していました。警察、消防組合・消防団もいました。市、 警察、消防組合・消防団、自衛隊の4つのプレイヤーがそのまま生きていたので、当初想定していたことができると感じました。消防長が司会をしていたこともあって、ここは消防の考えに乗って、消防団のエリアを活かして自衛隊、 警察、市も振り分けようと考えました。
大船渡市の場合は、地形も影響していると思いますが、市も消防も警察も残っていたことが幸いして、大変良く機能しました。また、三陸町越喜来などに行く三陸縦貫自動車道が利用できたことで、我々の活動も全然違いました。
”情報共有の場 調整会議”
──この会議の場では、関係機関による捜索活動等について話し合う調整会議を開くことも提案されたのですか。
そうですね。毎日夕方にその日の進捗や明日の計画を決めましょうということで提案しました。人員の運用と捜索地域の継続性について毎日確認しましょうということを言いました。
──調整会議では、どういったことを話し合ったのですか。
第一にお願いしたのは、必ず各地域に人数の過多はあっても4者の機能を配置させることを依頼しました。二つ目は、大船渡市に不案内な人もいるため、地図を準備してもらうことも依頼しました。これを元に、地域を区切り、ここは消防の何分団の担当、自衛隊は何部隊が担当する等を分かるようにしました。
また、余震も多かったので、余震による津波が来れば二次災害の発生にもつながります。この地域の活動ではどちら側の山に逃げるとよいかということも確認しました。
この調整会議があったおかげで、各機関が顔を合わせて話し合うことで連携がとれていったということもあったと思います。
”夜明けと共に一面の瓦礫の山 「映画のセットかな」と思った”
──現場の被害状況はどのようなものでした か。
夜明けとともに一面のがれきの町が見えてきました。それを見たときには映画のセットかなというような、なんだこれはという思いで見ていました。市役所に行って、皆さんが生きていることが逆に驚きでした。
──捜索活動中においてはどのようなことに 留意されましたか。
余震が多くありましたので、津波が来た場合に救助活動をしている部隊にいかに早く伝えるのかということが最も大変でした。散らばって活動している隊員に周知させて、車に乗せて逃げるというのは時間もかかります。 また、ご遺体を扱うため、隊員は心にショッ クを受けます。これまでご遺体を扱うことはありませんでしたから、一人ひとりショックを受けるのです。このため、夜には、車座になって辛さを吐き出して共有するようにしました。こうした、活動する際の隊員の安全確保と心の配慮が必要でした。
”生活支援への移行 長期支援の形”
──人命救助・行方不明者捜索から、次第に生活支援の方へ移行していったと思いますが。
この災害は、長期の支援になると当初からわかっていましたので、全ての資機材(食事の炊 き出し用の資機材や給水に必要なもの等)を持っていきました。毎日の調整会議でも自衛隊ができることを色々と伝え、どこに展開すればよいのか市から指示をもらっていました。市役所にも自衛隊の連絡員を置いて調整をしていまし た。
当初は人命救助、行方不明者の捜索を行い、 次第に避難所の支援に軸足を移していきました。市で荷分けと配布リストを作成してくれたので、これに基づいて物資集積所や避難所等への配送を行いました。物資配送は、次第に民間事業者が行いましたが、入浴支援については最後まで行いました。
”被災者を優先する自衛隊員の暮らし”
──隊員さん達の活動環境について野営地の状況を教えてください。
最初に野営地となった総合公園予定地から数日で大船渡東高校萱中校舎に移動しました。萱中校舎では、校舎の中を使用させてもらいました。水や電気等のインフラが整っていたのはありがたかったです。最初の1、2週間は風呂もなく、食事もパックご飯でしたが、被災者の方に給食支援や入浴支援を始めた頃から、校舎の中に浴場を作って入ることが出来ました。持参した食料がなくなると弘前に戻ったり、遠野にロジスティクスを担当する部隊がいたので、ここから入手したりしていました。
食事については、カロリーはあってもビタミン等偏りが出てしまいますので、ビタミンやアミノ酸等のサプリメントを隊員に配布したりしていました。
”地元の消防と連携 地域のことをよく知っている消防団”
──消防組合や消防団との活動はいかがでし たか。
消防の方々には本当によくやっていただいたと思います。最初に消防長が仕切っていて、これだけ色々な機能も残っているなら、自衛隊が全面に出るよりも、消防の区分けに乗って、そこに市も警察も自衛隊も入っていった方がよいだろうなと感じました。最初の段階で、人命救助・行方不明者の捜索をうまくできたのは、消防組合・消防団の方たちのお陰だと思います。 消防団の方たちは、地域のことをよく知っていますし、自分達の住んでいるところなので、やはり気合が違います。そういう気持ちが一番大事ですからね。
”帰隊セレモニーと自衛隊員の涙”
──帰隊のセレモニーでは多くの市民の見送りがありましたが。
市民の方々の感謝の気持ちはとても伝わってきました。私は立場上、笑顔でいましたが、隣のドライバーはずっと泣きっぱなしでしたから。野営地である高校でも我々の車が通ると高校生が敬礼してくれたりしました。
”自衛隊としての教訓とこれから”
──今回の震災を通して自衛隊として教訓として得たこと等はありますか。
災害派遣活動における根本は、被災者の皆さんの目線で活動することだということが一番の教訓です。また、やはり我々自衛隊だけではできないということも教訓になりました。日頃から県市町村との連携が大切だということですね。実際には計画どおりにいかないこともあるので、そうしたことも踏まえ対応する必要があ ります。さらに、災害はいつ発生するか分かりませんので、隊員の健康管理を含めてしっかりと日々の準備をしておくということが大切だと思います。
内容は全て許可の元岩手県大船渡市災害記録誌より抜粋しています