最終更新日:2022/09/03 (公開日:2019/07/30)
【 ぼくたち、熊本地震で出会いました vol.2 】
SHUくんはそういったことは何かされましたか?
それこそ、烈くんと出会った「熊本地震の支援に使います」という立て札を立ててストリートライブをしていたのもそうだし、「そういえばあそこ今大変よなあ」と何気ない会話のなかで入れてみたり。
曲を聴いてもらうというよりは、そうした興味のきっかけになってもらうことをまず意識しました。
ミュージシャンでいうと、被災地に胸を張って演奏しに行ける人たちは本当にすごいと思う。
そこをあえて、自分がやっている「音楽」というツールを使って現地へ行って、自分たちの演奏をする。それって、めちゃくちゃエゴじゃないですか。
ぼくはむしろ災害が起きた際、そうした自分の表現をする人たちに、ずっと違和感があったんです。
周りでそんな人たちが多かったのもある。「筆文字で書いたシールを売ってそれを募金します」とか「震災の歌を作ったので聴いてください」みたいな。
ぼく自身もそうですが、こんなときって自己表現に走りがちだと思うんですよ。
でも、それは本当に必要か?と思ったんですね。
今本当に必要なのは、自己表現するよりもバケツリレーの一員になることなんじゃないか、って。
自己表現であれなんであれ、「何かをしよう」と思う側の人間が気持ちよく動けていないと、向こうの人も気持ちよくないんですよね。
「これが最善だと思いました」って、心から思って気持ちよく動けていないと、そのズレは必ず向こう側に伝わっちゃう。
その手段がビジネスであれ自己表現であれボランティアであれ、気持ちよく付き合えるなら何だっていいんじゃないでしょうか。
僕が熊本地震のときに、何かできると驕っていたっていう最初に戻っちゃうんですけど。
烈くんもそうだと思うけど、変な話、ぼくたちってある種、東日本大震災や熊本地震に感謝している部分はあると思うんですよ。
熊本地震がないと出会わなかった人たちがいて、見えなかった自分がいて。僕は胸を張って、あの地震があったからこそ出会えた人たちがいるんでって言える。
それとはちがう、変な特別意識を持っちゃうと気持ちよくできないんじゃないかな。
自分と被災地との関係性において、優越感があったり、その優越感が引け目になったり…
いわば、「助けに行ってやってるんだぞ」みたいなのもそうかもしれない。
僕のストリートライブで募金してくれた人たちに、気持ちのこもっていないお金はなかったと思うんです。「今日の晩御飯、なににしよう?」とおんなじレベルで考えてくれた人たちから預かったお金で、僕はその間に居るだけというか。中継している、介させてもらっているんです。それはつまり、自分一人だけでは、推し量れない距離感の中にいる。それはつまり、僕だけでは完結しないということなんです。
いやあ、推したいところ盛りだくさんで、まとめるの大変だなあ、これ(笑)
そろそろ、この対談も終わろうと思いますが、最後にSHUくん、何かありますか?
例えば被災地の復興のために何かしたいと思う人もいれば、まったく興味のない人もいる。ボランティアさんは県外からたくさんくるけれど、被害の少ない隣町の人たちは他人事のようだったり。熱いとか、冷めてるとかではなくって、そんな色んな人の温度差を、僕は全員等しく大切にしたいと思っています。
気持ちいいですね。ぼくとSHUくんでこれ以上話しても、きっとこの先には行けないだろうなあ。また1年後とかに、話してみたいですね。あれから、どう思ってる?みたいな。ぜひまた、取材をさせてください。
SHUくん、今回は有難うございました!
(おわり)