最終更新日:2022/09/03 (公開日:2019/01/26)
孤立した避難所の公民館長
東日本大震災によって大きな被害を受けた岩手県大船渡市。
発災時、この市では様々な機関の人々が人命救助や安全、復興のために奔走しました。
その中で、避難所の一つとなった漁村センター(赤崎地区公民館)でリーダーを勤めて約300人の生活を守った館長 吉田さんへのインタビュー内容です。
”あっという間に孤立した公民館”
──3月11日の地震発生後の動きから教えてください。
この日は午後4時から漁村センター(赤崎地区公民館)で会議の予定でしたので、赤崎町の自宅にいました。地震が発生して、津波が来るというのがすぐにわかりましたから、ヘルメットと漁村センターの鍵だけ持って外に出ました。私が住んでいた生形地域では、災害時に誰が誰を避難させるかということを決めていたの で、私は、担当していた2人を避難させて漁村センターに向かいました。
漁村センターに到着すると既に赤崎小学校の児童等が避難してきていました。私は高齢者等を畳の部屋に避難させ、津波の様子を見ていました。そのうち、津波が漁村センターの周辺を襲い、漁村センターはあっという間に孤立してしまいました。
津波は、漁村センターに隣接する赤崎公園にも上がってきたので、消防団員に女性や子供等をもっと上に避難させるようにお願いし、梯子を使って建物2階のベランダから更に屋根へ上らせました。津波は玄関前でなんとか止まってくれたのでほっとしましたが、多くの避難者とともに完全に孤立してしまいました。
”私は避難している方々の総責任を負います”
──避難所となった漁村センターでは、吉田館長さんが避難所のリーダーとして避難者のまとめ役となり、行政はバックアップするという役割になったようですが。
生形地域では訓練を行政と一緒にやっていたこともあり、市職員である赤崎地区本部長ら地区本部の職員は、私のこともこの地域のこともよく知っていました。私が住民の先頭に立つ方が、避難者の理解と協力が得られると判断したのだと思います。
漁村センターは300人を超える避難者がいて、 避難生活が長引くことが予想され、完全に孤立していたので、みんなを不安にさせないようにしなければならないと思いました。避難者の中には、リーダーになれそうな人が7人いました。そこで、炊事班、衛生班、掃除班等のリーダーを選んで、3月12日に地区本部の人達に相談をしました。
そしてこの日、全員を集めて朝礼をしました。そこでは、「我々は孤立したため、当分の間、ここで共同生活をしなければならない。事故なく秩序を保ち安全に過ごすために、これらの人をリーダーとしてそれぞれ担当してもらいます。私は避難している方々の総責任を負い、 バックアップは行政がしてくれます」。ということを全員の前で話しました。
13日の朝礼では、お祭りで使った黄色い手ぬぐいで女性の避難者の方々に腕章をつくってもらい、それを渡しました。この腕章には、マジックで衛生担当等と書き、リーダーには横線を書いたものをつけてもらいました。さらに、リーダーには自分の班になる方を5人選んでもらいました。パソコンが利用できるようになってからは赤崎地区公民館の緊急対策要員として辞令交付もしまし た。こうすることでリーダーとしての責任がでてきたと思います。
朝礼は4カ月間、閉鎖するまで1日も欠かさず開催しました。また、午後7時からは消防団の代表者も入り、ミーティングも行いました。 朝礼と夜のミーティングを行うことは12日のうちに話し合って決めていました。大人数の避難所を運営していくには組織的に動かしていく必要があると考えていました。
”朝礼での笑えるエピソード”
──朝礼と夜のミーティングではどのようなメンバーでどういった内容を話し合ったのですか。
朝礼は、当初、漁村センターの避難者だけで実施していましたが、4日目からは孤立していた地域との往来ができるようになったので、赤崎町の9地域の公民館代表全員に参加してもらいました。救援物資が多く入っていたので、赤崎町内にどんな物資があり、どのように配分するかを9地域の公民館長立会いのもと、伝える必要があったことが朝礼を行う理由の一つでした。
朝礼では、まず自分が訓話をしますが、みんなを安心させるために必ず一つ冗談を言うようにしました。そして、行政サイドからイベントや物資配給などの伝達事項を連絡しました。各地区からも共有すべきこと等の連絡がありました。パソコンが使えるようになってからは、朝礼の伝達事項をまとめて掲示し、記録が残るようにしました。こうして、赤崎地域全体で情報共有を図る体制を構築しました。朝礼を行う大きな理由は、この地域全体での情報共有でし た。
一方、夜のミーティングは、漁村センターの各班リーダー、地区本部、消防関係、警察関係に入ってもらいました。今日の出来事の共有と問題点の協議、翌日以降の予定の確認を行うとともに、翌朝の朝礼で伝達することの確認等も行いました。夜は街灯もなく危険だったので、 各地区の代表には朝礼だけ集まってもらうよう にしました。
”マスコミを使って安否情報を発信”
──市防災対策本部から届く救援物資の他に、直接漁村センターに届いた物資もあったと思いますが、独自に情報発信を行っていたのですか。
3月12日の夕方からマスコミが漁村センターに来てテレビ中継をしていました。当時ラジオを聞いていると、全国で安否を心配する人がたくさんいることが分かりました。ここで生きていることを伝えたいけれど、知らせる術がなかったので、このマスコミに取材を受けることを条件にテレビ中継で避難者の顔をゆっくり映してくれないかとお願いしました。これにより、14日朝に避難者を映してもらい、全国に安否を知らせるとともに、私から救援を依頼するために、米を必要としていることを伝えました。この放送を見た方などが、すぐに米を届けてくれ、たくさんの米が集まりました。15、16日頃からはおかずになるものも届くようになりまし た。
──避難所運営においては、吉田館長さんのように地域の方でリーダーになる方はなかなかいらっしゃらないと思うのですが、なぜまとめ役として活動できたのでしょうか。
私は、太平洋セメントに勤めていて、リーダーシップや人の動かし方を会社の中で学びました。避難所ではリーダーとなる方が必要だと思いますので、私は講演の際にリーダーとしての心構えのようなこともお話しています。
”参加した人が得する避難訓練”
──漁村センターのある赤崎町生形地域では 普段から避難訓練の参加率が高いのではないかと思いますが、いかがですか。
普段の訓練では、参加者数を向上させるために、参加した人に防災グッズを配布したりして、参加した人が得するようにする等、色々と工夫をしています。
今回の震災では、訓練の効果が出た出来事がありました。それは火災発生を想定した訓練で バケツリレーをしていましたが、今回これが役立ちました。米軍のヘリコプターが救援物資 届けるために漁村センターに隣接する赤崎公園に1日に何度も着陸しました。その際、避難者が一列に並んでバケツリレー方式で米軍のヘリコプターから物資を運び出しました。こうした動きには米軍も驚いていました。
”生きたものの責任”
──今回の震災からの教訓はどのようなこと がありますか。
まずは、この経験を活かすことが大切だと思います。赤崎地区自主防災組織連合会の記録誌のタイトルも「3.11の記憶~東日本大震災から学ぶ~」としました。生きた者の責任としてこの教訓を活かすことを考えなければなりませ ん。そういった意味でも我々の体験を他のところで活かすことが我々の役目だと思います。
また、今回の災害では人脈がいかに大切かということも学びました。常日頃のコミュニケーションを大切にしていかなければならないと感じています。
内容は全て許可の元岩手県大船渡市災害記録誌より抜粋しています