「なにも発しない」ということ。

 

* 今日という日に、たくさんの人が、それぞれおもいおもいに、たくさんのことを書いているでしょう。しかし、それらに特に意味はないと思っています。し、ぼくがこうして書くことも、あまり意味はありません。当事者も、そうでない方も、とおくにいる人も、ちかくにいる人も、今日という日に好き勝手いろんなことを書くのは、ある種の熱狂的な何か、オリンピック的なものに近い気もしています。もちろん、いいことなんだけどね。けれど、わざわざ書かなくったって、大丈夫。ほんとうのところは、書かずとも、きちんと心がわかっているんだと思います。だからまあ、書いたって、書かなくったって、言ったって、言わなくたって、どっちだっていい。

 
 
 
 

いろいろ書いたって、書かなくったって、ほんとうにどっちだっていいんです。この日だから想いを発してもいいし、発さなくてもいい。かなしみのまつわる場所にはかならず、「黙祷」という儀式が存在します。小学校の頃から、ただ作業みたいにしてしまうようになった大人の今でさえ、この「黙祷」という行為の、意味を考えます。「いのる」はもちろんのこと、この黙祷でなによりも大切なことは、「黙る」ことなのかもしれないな、と、ふと思ったのです。「なにも発しない」ことに、なにかちいさな礼節があるように思えたりしたのです。

 
 
 
 

* 今日の日を、はやく忘れたい人もいるでしょう。反対に、忘れて欲しくない人もいるでしょう。今日だからこそ、笑って過ごしたい人もいれば、今日だからこそ、泣いていい日だと決めている人もいるかもしれません。大切な人と会える日が、今日だという人も、きっといるでしょう。今日が何の日か分からない東北生まれの子どもたちだっているだろうし、今日が誕生日のなんでもない大人もいるでしょう。想いを馳せて今日という日を伝えようとする東北以外の人もいれば、今日も黙々と道路を直している東北の人もいるかもしれない。みんなが傷つかないように、みんなに気をつかって、なんてのはむずかしいんだけど、できるだけ、できるだけいろんな人のことを想像しながら、今日の日を書いてみました。

 
 
 
 

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今日も、わざわざよんでくれてありがとうございます。

「みんなが笑い合ったりしてるけど、心に喪服を着ているんだ」糸井さんの今日のひとことは、胸にくるものがあった。

 
 
 
 

(白川烈の3月11日のDAYSTORYより)